ライフサイエンスのための基礎化学

ライフサイエンスのための基礎化学生命化学を理解するために必要な化学を必要最小限な部分に徹底的に絞り込んで、たった150ページにまとめた入門中の入門とでもいうべき自習用教科書。とにかくコンパクトにまとめてあるので、事実の羅列になっていて、背後にあるメカニズムの解説は深くはない。そこはこの本のポリシーなので読み手も割り切るべきだろう。各章末に、より詳しい教科書、参考書が紹介されており、さらに学びを深める道しるべになる(邦訳があるものはちゃんと訳書の情報も示されている)。また、読者に数学の知識を要求しない方針で書かれているので、数式の導出過程もばっさりと省略している(巻末に重要な式の導出過程が付録として添付されている)。前提知識なしで、生命科学のために必要な化学を短時間でざっと眺めるためには、かなり使える教科書といえる。これだけコンパクトに絞り込んでいるにも関わらず、理解を確認するための例題や章末問題はふんだんに用意しているのもいい。

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生命の跳躍

生命の跳躍☆5つでは足りないくらい、素晴らしいポピュラーサイエンスです。レーンの著書は、どれも傑作で邦訳にも恵まれていますが、その中でも最高です。これまでの著作を先に読んでおくと、理解しやすく、より楽しく読めるでしょう。最先端の生命科学が答えをだしていない、あるいは、生命科学者ですらその多くが敬遠しているような問題に、著者なりの解答を提案しています。そのため、初学者がすらすら読んで理解できるほど「ポピュラー」とはいえません。一読して驚くのもいいし、精読して参考文献も紐解きながら耽溺するのも楽しい、創意に満ちた知的冒険の書です。
取りあげられている10のトピック(生命の誕生、DNA、光合成、複雑な細胞、有性生殖、運動、視覚、温血性、意識、死)は、どれも、生命が複雑に進化する過程で獲得してきた能力です。現代を生きる私たちは、そうした能力を持つ生命を見慣れてしまっているため、ふだんいちいち不思議に思うことはありません。レーンは、10の各章で、それぞれの能力がいかに重要で、奇跡的で、精妙な装置であるかから語りはじめ、生命進化の長大なしかし限られた時間の中で、そうした奇跡がいかにして起こりえたのかを、現時点で明らかになっている科学的知見を総動員して考え、彼なりの解答を示します。どのトピックも、完全な答えの出ていない、未解決問題ばかりです。しかも、どれもとびきり重要な問題です。それらについてまとめあげて展望を与え、著者なりの仮説を示そうという本書の構想は壮大です。レーンはそれを成しとげ、読む者を圧倒する、生命科学の知の曼荼羅をつくりあげました。私も生命科学者の端くれですが、生命科学をやっていて本当に良かったと、この本を読んで再確認した思いです。

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麒麟の翼

麒麟の翼東野圭吾は「さまよう刃」あたりから、被害者の視点を強く意識しており、本作もその流れの上にあります。加賀恭一郎というキャラクターは、「どちらかが彼女を殺した」「嘘をもうひとつだけ」など東野作品の中でもロジック重視の作品に起用されてきた印象があります。加賀の特徴は、何気ない会話にひそむ意味を拾いあげながら真相へと詰め寄っていくスタイルにありますが、それはそのままに、新たな東野作品で活躍しているのは、年輪を重ねた俳優が新境地を開拓したようで愉しめます。
本作「麒麟の翼」には、どんでん返しはありません。加賀の捜査によって、初期の印象とはまったく異なった方向へと事件が収束していきますが、いわゆる謎解きの快感や意外性に満ちた物語ではありません。この物語には、理解不能なサイコパス的な登場人物はひとりも登場しません。被害者は死亡し、加害者は逃走中の事故で意識不明の重体、という状況で、被害者の家族、加害者の家族、その周囲の人々が描かれます。マスコミなど「部外者」を自認する者たちの振る舞いが、もっとも下劣で暴力的なものとして描かれているのが印象的です。
加賀は、被害者、加害者それぞれの足取りを追いながら、周辺の人物から丹念に聞き取りをおこない、その言葉の端々から矛盾を拾いあげ、誤解を破り、真相へと近づいていきます。一見なんでもなさそうなできごとや会話の中にささやかな不整合=謎を見出し、解きほぐしていく。その「気づき」のひとつひとつが、とても丁寧に考えられており「名工の技」のようにも感じられます。幕切れ近くにドカンと炸裂する大仕掛けに期待するのではなく、全編に散りばめられたきめ細かい技巧の数々を堪能するのが、本作のミステリとしての楽しみ方のように思います。
終盤、この作品中で、加賀が一度だけ激昂し、ある人物に強い言葉を投げかけます。この社会にありふれている振る舞いが、やがて大きな歪みへと育ち、多くの人々を不幸に陥れることすらあるのだという思いが、その言葉には込められています。
かつて東野圭吾は、ミステリを逸脱するのではなく、拡張したい、自分の書くものはミステリである、のように述べていました。「麒麟の翼」もミステリの構造をとりながら、普遍的な物語へと昇華した小説になっています。

 

下町ロケット

下町ロケットAmazonの内容紹介や、腰巻きの惹句から想像される内容は、中小企業と、それを食い物にしようとする大手企業の闘い、だろう。
その期待は、良い意味で裏切られた。
物語の前半は、確かにその通りで、特許侵害を巡る法廷劇や、大企業による買収といったビジネスドラマであり、主人公は翻弄されながらも何とか生き残っていく。研究者として挫折し父の町工場を継いだ主人公、メインバンク、ライバル企業、巨大企業といったそれぞれの立場の人物の思惑とその錯綜がよく描かれている
でも、それはプロローグに過ぎない。
嵐が過ぎ去って、主人公は、これが俺の人生なのか?という問題に立ち返る。
そこからが、この「下町ロケット」の本領だ。ロケットエンジニアリングをネタにした知財争奪戦というプロローグを軽々と踏み越えて、この物語は、真正面からロケット開発の現場へと挑戦する。主人公とともに。
「ものをつくる」ってことには、それ自体感動がある。自分がつくったものに惚れ惚れと眺め入ってしまうような感動。ものづくりは、現代であっても夢となりうる。数年前「レボリューション・イン・ザ・バレー」を読んだときにも、ものをつくるという行為に宿る昂揚と恍惚に打ち震えたが、「下町ロケット」の後半も、ものづくりに夢を託しつつ、それを夢物語でなく、現実のドラマとしてリアリティを持って書き抜いている。
自己の幸福を他者の評価に委ねず、自らの胸の裡に何らかの矜恃を秘め、辛うじてそれを守りながら生きている人であれば、必ずこの物語に勇気づけられるだろう。

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Genetics of Original Sin

Genetics of Original Sinde Duveの最新作「Genetics of Original Sin(原罪の遺伝学)」。とりあえず斜め読み。エピグラフは真っ向勝負の創世記3:6 内容は、この大上段のエピグラフをしっかりと受けきっている。書こうとしている内容に較べれば200ページは短いが、フランス語の原著を出版したとき91歳なのだ。

目次を全訳してみた。小見出しの各項目は1〜数ページなので、これだけで全編の要約になっている。de Duveのこれまでの著作を読んだ人なら、おおよそ内容の見当はつくだろう。「Singularities」の時にも感じたが、これはde Duveの集大成だなあと思う。

そして、時代を代表する科学者として、また、幼少期よりカトリック教会で教育を受け、カトリックの大学で学び教鞭を執った科学者として、宗教への言及に踏み出さざるをえなかったのか、とも感じる。第4章は、科学者という枠を敢えて踏み越えて書いているのではないか(第4章の内容は見出しからだけでも断片的な印象があるが、de Duve自身、introductionにおいてsketchであると述べている)。

「原罪 Original Sin」の章が13番目に配されているのは、おそらく偶然ではあるまい。

90歳を超える高齢を圧して、なお1冊の書物を世に放ってくれたことを心から感謝して、改めて読み進めたい。

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横道世之介

横道世之介横道世之介というどこにでもいそうで、実はなかなか出会えないのかもしれない大学生の東京での最初の1年(おそらくは1987年)を描いた小説。世之介の魅力を数百字で伝えるのは難しい。敢えてまとめれば、彼の魅力はその気負わない前向きさだろう。流れに巻き込まれて、意図せぬ状況に立ち至っても、後悔したり、言い訳したりせずに、とりあえずその状況を生きる。楽しもうとしたり、立ち向かおうとしたりしているようには見えない。そういう気負いはない。受け流しはするが、逃げはしない。後ろ向きではない程度の前向きさ。
作中、まるで過去を回想するように、約20年後の「現在」が挿入される。そこでは、40歳を過ぎて大人になった登場人物たちが、日常の隙間にふと世之介のことを思いだす。そういえばあんなヤツがいたな。おもしろいヤツだったな。あいつと知り合いになれてよかったよな、と。ずっとつきあいがつづいているわけではない。今、どこでどうしているかもわからない。でも、ふとしたきっかけで、楽しい思い出として、ほんの少し思いだす。ぼくはたぶん世之介よりひとつ年下で、やはりいま20年後の「現在」を生きている。ぼくに、そんな人物がどのくらいいるだろうか。
終盤、世之介が恋人のために用意したあるものが、当人の手にわたる。日々、人は人になにかを渡しながら生きる。気楽な思いだったり、重大な意図だったりを込めて。でも、言葉やモノに込めた意味は、そう簡単に正しくは伝わらない。意味は変容し、でも繋がって、受け継がれていく。「横道世之介」の終盤に描かれるのも、そうした弱い連鎖だ。意味を変えながら、手渡されるモノ。その脆さ。でも、表層的な意味が忘れられ、あるいは誤解されても、もっと深いところでは、ちゃんと繋がって、引き継がれていく、その強さ。なんてことのない日常、なんてことのない友人、家族のかけがえのない愛おしさを、そのまんま書いてしまったこと、書けてしまっていることが、この小説を、かけがえなく愛おしいものにしているように思える。

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数学は最善世界の夢を見るか?

数学は最善世界の夢を見るか?モーペルテュイの最小作用の原理を中核に据え、人類文明における科学、合理的思考の役割を考察した傑作。原著は、2000年に仏語版が、2006年に仏語版に基づく英語版が上梓されている。英語版では一部内容の削除、追加が行われており、2つの版の印象は異なるようである。そのあたりは「訳者あとがき」に詳しい。
翻訳は、より新しい英語版に基づいているが、英語版で削除された仏語版の記述が付録として採録されるなど、いいとこ取りの構成になっている。翻訳者・南條郁子氏の配慮と、みすず書房の良識に感謝、感銘。
著者エクランドがフランス人ということもあるのだろう、本書ではモーペルテュイの他にもデカルト、フェルマー、ラグランジュといったフランスで活躍した研究者への言及が多い。フランス人贔屓というわけではなく、エクランドの教養を形づくっている要素を反映すれば自然なことなのだろう。それが、英米の科学者やサイエンスライタの書くものとは異なったものの見方を生みだしており、おもしろい。

ガリレオの仕事をとっかかりとして、時間とともに変化する運動現象を、どうやって科学の枠組みに捕捉したのかを眺め、代数と幾何という異なる流れの中で発展してきた数学が合流し、運動を理解する上での強力な道具になったことが語られる。
そして、モーペルテュイが、最小作用の原理によって、この世界が最大限効率的に無駄なく作りあげられており、それこそが神の御業の痕跡であると主張する。その周辺で、この世界(宇宙)は、存在可能なあらゆる世界の中で、最善の世界なのかという哲学的な問いに、数学によって挑む試みが繰り返されていく。
やがて科学は神と別れを告げ、テクノロジーと手を結び、さらに発展し、私たちの文明に明暗ともども深く拭い去れない影響を与える。その中で、最小作用の原理は折に触れ再解釈され、そこから最適化理論が派生する。エクランドは、生命科学や経済学といった領域を実例としてあげ、世界が(局所的であれ)最適化されているか、最適化することは可能かを探究する。

科学を最高の武器として駆使し、この世界の成り立ちを理解しようと思索を巡らし、最終的に、合理主義に拠って立つ自らの立場を明解に記述し、こうした思索の積み重ねが、個人的な幸福とどう繋がっていくかにまで言及している。

進化遺伝学

進化遺伝学ジョン・メイナード=スミスによるこの領域のスタンダードといえる教科書です。ロジスティック方程式を用いた集団の記述から、ゲーム理論による表現型の進化、量的遺伝学の基礎などを幅広く納め、性淘汰や大進化といった複雑で興味深い内容にも筆が及びます。古い教科書ですが、章ごとに、手計算や関数電卓程度で解く演習問題とともに、プログラムを書いて解くことを想定した演習が用意されています。この領域の良質な入門書として今後も長く読まれることと思います。翻訳がイマイチです。原書は第2版まで出ています。

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プルーストとイカ

プルーストとイカこんなすばらしい本に、邦訳されて1年以上も気づかずにいたことを反省させられる。そのくらいすばらしいポピュラー・サイエンス。アメリカには、こういう本を書こうとする研究者とそれをサポートする編集者がいて、コンスタントにこういった良い意味で、非専門家のレベルまで「降りてこない」著作が上梓される。
タイトルにあるプルーストとイカは、いずれも読字という高度な脳機能のアイコンである。プルーストの文章と読書観は、読字といういうプロセスが機能として現れるマクロ側の一端を象徴し、イカの神経回路は、そのプロセスを支える細胞とそのネットワークというミクロ側の一端を象徴している。このタイトルに象徴されるように、この書物は、読字というプロセスをマクロからミクロまで縦断的に、そして、神経科学から音韻学、言語教育まで横断的に描きだそうとしている。
諸領域で、本当の意味で学際的な研究への取り組みが深化しつつある、この21世紀だからこそ、生まれでた書物といえるかもしれない。
本書は、大きく3つのパートからなる。
パート1は、ヒトという生物が、文字をつくり、文字を読み、文字を他者と共有するという、他の生物種に類を見ない能力をいかにして獲得し、磨きあげてきたかを俯瞰する。生物の身体は、さまざまな機能のために特化した器官を進化を通して獲得している。陸上で呼吸するための肺、歩くための足、飛行するための翼などなど。脳にもさまざまな機能分化があり、見るための領域、運動するための領域などが存在し、独自の神経回路をつくっている。しかし、読むために特化した回路、読むための遺伝子は見つかっていない。読むという能力は、生命進化の時間スケールから見れば、非常に短い期間に獲得されており、読むことに特殊化した装置を進化によって獲得するには至っていないのだ。読むという機能は、ヒトが読むことを始める以前から持っていた脳内の回路を流用することによって実現されている。
パート2は、ひとりのヒトが、成長の過程でどのように読字能力を身につけていくかを描く。見ること、聴くこと、そして話すことは、健常者であれば、教えられなくてもやがてできるようになる。これに対して、読むことは、教えられなければ身につけることのできない能力である。パート1で描かれる読字の歴史でも、もっとも古い文字体系のひとつを開発したシュメール人が、同時に高度な読字教育を行っていたことが示される。パート2では、教育環境が与えられたとき、ヒトの脳がどのように変化し、読むことができる脳へと発達していくのかが概説される。
パート3は、読字に障害のある脳について語られる。著者は、この領域を研究するトップランナーであるとともに、読字障害を抱える息子の母親でもある。パート3冒頭の1節には、著者の熱い想いがこもっている。これ以降を書くために、ここまでの2つのパートがあったのか、とも思える。生物学では、機能の欠失した個体の特性を研究することで、その機能について理解を深めるというアプローチが頻繁にとられ、王道のひとつとなっている。読字を科学的に理解するために、読字障害(ディスレクシア)の研究が重要なのは間違いない。
読字障害の脳の一部では、本来読字において重要な役割を果たす左脳の領域が読字の際に機能せず、それを代償するように右脳が機能し、総合的な処理速度、処理能力において後れをとっていることがわかっている。
従来、それは読字に重要な役割を果たす左脳の神経回路に何らかの機能不全があり、別の領域でそれを代償しようとするがしきれないために読字障害として現れると解釈されてきた。それが、現在では、発達の過程で脳が読字のための回路を構成しようとする時点で、右脳の能力が突出して高いために、本来左脳で構成されるはずの回路を右脳が引き受けてしまうのではないか、という仮説が提案されているという。右脳優位の読字回路は、初歩的な読字には適応するが、後年、求められる読字能力が複雑高度化すると、いかに右脳が優れていても左脳の回路には及ばず、読字障害が発現するというのである。この仮説は、読字障害者に稀有な能力を持つ人物が非常に多いという事実をも説明している。
読むという、できてしまえば日常生活の基本スキルとなってしまっている技術が、いかにすばらしく、また複雑で損なわれやすいものであるかを実感させてくれるすばらしい本。
また作者は、全パートを通じて、物心ついたころからインターネットを利用して情報を得る新たな世代が、読字を巡るたいせつな何かを失うのではないかと、控えめに警鐘を鳴らしている。自分自身もやっていることなので、実感しているが、問題を解決するために、ネットを検索し、材料を寄せ集め、形を整えて一件落着、というやり方は、そのプロセスだけを繰り返していると、情報を右から左に受け流すだけになり、自分の中に形のある何かが残りにくい。作者が危惧するのも、そうした知のあり方が、人類の知の前進にどう影響するかという点だろう。
作中では、古代ギリシャで、文字による知識の記述が始まった頃、当時の大哲人ソクラテスが、文字による知識の記述が人間を衰退させるとして、その流れに真っ向から反対を唱えたことが繰り返し引用される(師の教えに背き、その弟子プラトンがソクラテスの対話を書き残したことによって、私たちはソクラテスの叡智に触れることができるというパラドクスがある)。ソクラテスの嘆きは、一部は正鵠を射ており、一部は的外れだった。そして、膨大なデジタル情報の検索という、新たな情報ハンドリングに移行しつつある現代において、ソクラテスの叱声の意味が甦るのかもしれない、ということだ。
中世の停滞と衰退などに実例を見ることができるように、人類の知は、必ずしも進歩を約束づけられてはいない。自らがつくりだした便利な道具によって、自らの進歩を取りやめてしまう可能性は充分にある。

「標準模型」の宇宙

「標準模型」の宇宙素粒子物理学、とりわけ標準模型に関する一般向け解説書。素粒子物理学に関する一般向けの書物は、日本語で読めるものでもかなりの数がある。この分野で日本人ノーベル賞受賞者が出たことでブームにもなった。しかし、ここまで真正面から、手間を惜しまず、標準模型を理解するために必要と思われる要素を一般向けに解説した書物はかつてなかったのではないかと思う。すばらしい。
本文だけでも450ページを超える大部だが、密度も相当に高い。前半3分の1で、現代物理学をレビューし、場の量子論まで解説する。中盤の3分の1は、対称性と群論の解説。そして残る3分の1で、それまで解説した「基礎知識」を土台に、ゲージ理論、標準模型など、最新の素粒子物理学の到達点が解説される。
著者自身が「まえがき」で述べているように、この本では、素粒子物理学の歴史や、研究者の人物に関するエピソードには紙数を割いていない。一刻に、素粒子物理学を理解するための解説だけを書いている。これだと、書きようによっては初学者向けの教科書になってしまいそうだ。なのに、読んでいて楽しく、また教科書とは明らかに一線を画していると感じられるのは、著者自身が自分の研究対象を心底楽しんでおり、それを読者に伝えようとしているからだろう。「ほら、面白いでしょう」という著者のワクワクする気持ちが、行間から伝わってくる。
数式を極力排するなど、ポピュラーサイエンスに分類される書物には違いないが、たいていの類書が説明を諦めている部分も正面から説明しようとしており、類書に物足りなさを感じていた読者には喝采ものだろう。
現代自然科学の尖端に真正面から取り組み、成し遂げているのは、すばらしいのひと言に尽きるが、しかしながら、やはり類書に比べれば内容は難しい。例えば、縦書きのポピュラーフィクションで、ファインマンダイアグラムの読み方を丁寧に解説し、実際に数十枚のファインマンダイアグラムを示して現象の解説を試みているような本を、私は他に知らない。
クオーク、対称性、標準模型といった概念について何の知識もない人がいきなり本書に取り組むのは「挑戦」だろう。「ガリレオの指」「もっとも美しい対称性」など、より平易に書かれたポピュラーサイエンスで地ならししてから、本書へと読み進むのがいいように感じる。
素粒子物理学を扱ったポピュラーサイエンスに、本書の次(further reading)は存在しないだろう。この本を読んでさらに知りたいと思ったら、専門書を手にとるしかない。そのくらい高度な内容が、ごまかし抜きに書かれている。(3度目になるが、)すばらしい。
なお、この手の一般向けの書物は、当然ながら著者の考え方が明に暗に現れる。その中には、民族差別的な考えの持ち主であることを想像させるものもある。複数の研究者が同時平行にある発見に至ったような事実に言及するとき、欧米の研究者による成果だけを引き立たせ、日本人をはじめとする他民族の研究者の業績をことさら矮小化して記述する書き手もいて、内容がすばらしければすばらしいほど、残念な思いに駆られる。
本書は、(少なくとも日本人に対しては)非常にフェアである。南部陽一郎、小柴昌俊、益川敏英、小林誠らの業績が深い経緯とともに紹介されている。特に、南部陽一郎に対しては尊敬の念を抱いていることが伺われるが、これは、そもそも南部の業績が先駆的で偉大なものであることに加え、筆者がシカゴ大学で博士号を取得していることに関係しているかもしれない。筆者は実験物理学者、南部は理論物理学者なので、師弟関係ということはないだろうが、筆者の在籍当時、南部はシカゴ大学で教鞭を執っており、講義を聴いたことは十分に考えられる。

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