数理モデル

連休中の「概念構築」で取りかかりつつある仕事の話をして、時間配分もミスって散々。この仕事をどう説明するか(≒序論をどう構成するか)数案パラレルに考えている中からいちばんトリッキーなものでチャレンジしてみたけど、質問が途切れてしまうというのは惨敗。

連休の残りを使って、この研究で使うモデルを動くところまで実装してみた。下図はその構成図。思いの外いい感じに動く。このまま気分よく進んでいけばいいが。

龍の歯医者

空想力の限りを注いだファンタジー。シビれた。
龍という、人の生死を支配する神話的かつ絶対的な存在を、明治大正期を髣髴させる「現実」に境目なく埋め込んで、神話と現実を自在に往還するのが素晴らしい。
主人公ふたりは、龍など存在しなくても死がありふれている時代に生きている。自らの死期を知って、それまでの生を幸福に生き切ろうとする龍の歯医者の少女・野ノ子。一度その命を喪い、龍によって「黄泉帰り」として生き返った少年ベル。
ベルは、生きる価値を、生きながらえることに求める。前後編の物語の中で、野ノ子の価値観はまったくブレることがなく、ベルは野ノ子の死生観にひとかけらの印象も残せない。
重かった瞼を上げ、世界を直視して変わっていくのは、もっぱらベルだ。
終盤、ベルは自分の辿ってきた輪廻にも喩えられそうなある循環について自ら総括する。彼の総括とは別に、この作品は、ベルが拳銃を失い、最後にはそれを取り戻すまでの物語でもある。あわせて90分ほどの尺の中にこれでもかとばかりに様々な要素を詰め込んだ忙しないフィルムのクライマックスは、ゆったりとしたオデッサの階段へのオマージュとも取れる、どこか青臭さすら感じるモンタージュだ。
そして、拳銃は少年の手もとに帰る。
エンドタイトル前のラストカットもまた、この拳銃だ。
龍はなぜベルを災厄を知らせる「黄泉帰り」に選んだのか。訪れた災厄を思えば、それは偶然ではない。
舞城王太郎だけでなく、榎戸洋司のテイストも随分入っているように見受けた。ロジカルかつ破格。素晴らしい。

イミテーション・ゲーム

この映画では、アラン・チューリングを典型的な自閉症スペクトラム(ASD)を持った人物として描いている。例えば、同僚から「俺たち昼飯に行くけど」と声をかけられても、そこに「君も一緒に昼飯に行かないか」という意味が込められていることを推測することができない、といったエピソードが高密度に詰め込まれており、そこからチューリングという人物の輪郭が立ち上がってくる。
ベネディクト・カンバーバッチは、BBCドラマの「シャーロック」でも、強度のASDを持つ人物としてシャーロック・ホームズを演じているが、「イミテーション・ゲーム」のチューリングには、シャーロックの影はほとんど見られない。むしろ、まったく対照的な人物として演じている。脚本の人物造形が異なるといえばそういうことなのかもしれないが、カンバーバッチに畏怖を感じずにはいられない。
「シャーロック」におけるシャーロック・ホームズは、天才かつsociopath(彼はpsychopathではないと強弁する)である自分を肯定し、人生を楽しんでいる。一方、「イミテーション・ゲーム」におけるアラン・チューリングは、自分の才能には揺るぎない自信を持ちつつ(ケンブリッジ大学教授という相応の社会的地位も得ている)社会適応に困難のある自分あるいは、自分が社会に適応することができない理由を理解できないことに苦しんでいる。

英軍が秘密裡に組織したチームに加えられたチューリングが、同僚や上官たちと葛藤しつつ、ナチスドイツの難攻不落の暗号「エニグマ」の解読に挑む過程がこの映画の本筋だ。その挑戦の結末は多くの人が知るところだし、その後、チューリングが歩んだ人生も、ぼくのようにコンピュータとかが好きな人なら知っているだろう。だからといって、この映画が色褪せることはなかった。ひとつひとつのシークエンスに濃密な空気が詰まっており、この映画のつくり手たちが思い描きつくりあげたアラン・チューリングとその周辺の人々の人物像に心底揺さぶられ、心を打たれた。

作中、いくつかのフレーズが繰り返される。印象的だったひとつは、以前Aplleが使った「Think Different」に通じる「think differently」。たとえば「A machine is different from a person. Hence, they think differently. The interesting question is, just because something, uh… thinks differently from you, does that mean it’s not thinking?」…機械は人間のようには考えないが、だからといって機械が考えていないとはいえるのか、という問いかけ。チューリングは自問自答しながら、機械と人間の考え方が違うように、「あなた」と「わたし」の考え方も違うのであり、異なった考え方をする他人がどうやって理解しあえるのか、という疑問そして絶望へと沈んでいく。

もうひとつ、おそらく、この映画を観た人の多くの印象に残るであろう「Sometimes it is the people who no one imagines anything of who do the things that no one can imagine.」(ときに、誰も想像しなかった人物が、誰も想像できなかった事を成しとげる)という言葉がある。このセリフは、物語中、3回(たぶん)、それぞれ5年以上の時間をあけて、異なる人物によって、バトンリレーのように発せられる。どれも、とても大切な場面だ。一見、論理的かつ理知的な雰囲気で口ずさまれるのだが、そんなことはまったくない。ぶっちゃけ「根拠のない推測」に近いセリフだ。だからこそ逆に、この言葉を発する人物の思いがあふれだす。この言葉に込められているのは「君を信じている。君は大切な人間だ」という強い思いに他ならない。
それに気づいたら、涙が止まらなくなった。

アイネクライネナハトムジーク

アイネクライネナハトムジーク伊坂幸太郎らしい、というか、たぶん伊坂幸太郎しか書かない作品。
6篇の連作短編集で、冒頭の2篇は、著者が敬愛してやまない斉藤和義の依頼を受けて、斉藤の楽曲に寄せて書かれたもの。
舞台は仙台、各篇の登場人物が少しずつ重複し、少しずつ繋がっていて、錯時的に構成されている、といういつもの伊坂節。
最近の伊坂幸太郎らしく、何てことのない日常を、軽やかに描く。日常に突然まぎれこむちょっとした奇蹟が、日々の暮らしの輝きを少し増してくれたり、微笑ませてくれたりする、そんな小品たちだ。
6篇の作品は、およそ20年(正確には19年)の時の隔たりをもって散りばめられおり、最終篇「ナハトムジーク」に倣うなら、主に、現在、およそ9年前、およそ19年前の3つの時刻が舞台となっている。ある話で27歳だった主人公は別の話で46歳となり、11歳の子どもがいたりする。
伊坂幸太郎の作品では、別人と思われた2人の登場人物が実は同一人物という叙述トリックがしばしば用いられるが、本作では、登場人物が約20年間の時間経過の中で姿を変えることで、トリックでも何でもないのだが「実は同一人物」という驚きやおかしみが数多く企まれている。
およそ10年という時間を経て登場人物が再会する場面がいくつかあり、それは運命の再会といったドラマチックなものではなく、偶然ばったり、という感じの遭遇なのだが、そこで、それぞれの想いが一巡りして、思いもかけず、誰かが誰かの背中を押す。
堅苦しい「小説作法」の類では、「小説の中でやってはいけないこと」を、伊坂は堂々と中心に据えて、佳品に仕上げてしまう。楽しい。
「実は同一人物」の多くは、物語を推進する力になっているが、気づいた人だけ笑ってね、というものもある。ぼくが気づいた限り、いちばん細かいのは、「ライトヘビー」に登場する美奈子の友人のひとりと、「メイクアップ」に登場する窪田結衣の同僚のひとりが同一人物、というあたりか。

日曜劇場 「ごめんね青春!」(シナリオ集)

日曜劇場 「ごめんね青春!」本書は、完成した作品に沿って編集された「シナリオ採録」ではなく、純然たるシナリオ集です。ですから、放映されたドラマではカットされたシーンやセリフが残されています。終盤を中心に、泣く泣くカットされた部分がたくさんあることがわかり、DVDでは復活してくれないかなぁと期待が高まります。一方で、カットしたことで良くなったのでは、と感じる部分も。
第9話とか、終盤の2人のシーンのために、前半が相当刈り込まれているのがわかります。
シナリオそのものもとても楽しく、泣き笑いしながら読めますが、それに加えて、ほとんどト書きのないセリフだけのシナリオから、あの映像をつくりあげる演出のチカラに感服します。多くの方々のイマジネーションが紡ぎあわされて、すばらしいドラマになったんだなぁ、と。

宮藤さんによる「まえがき」や、キャスト・スタッフへの一問一答もあり、どうして第1話には「カバヤキ三太郎のごめんね青春」がなかったのか、などが明らかになったりしますが、そういったオマケはごくわずかで、基本的にピュアなシナリオ集です。
これは、ドラマを観た人への、ご褒美だろうと思います。このシナリオに、たくさんのものを足さないと、放映されたドラマにはなりません。けれど、足されたたくさんのものを観て、味わった人には、このシンプルなシナリオで充分に追憶に浸れます。

興和記念会

東大先端研の興和基金によるシステム生物医学分野発足10周年を記念する懇親会に参加。同会で、フォーマルな谷内江くんの紹介も行われるため。児玉先生はじめ、多くの方々と話をすることができた。

先端研の理念はSFCに通じるところがあると前々から感じていたが、冒頭の挨拶で「本郷ではやれないことをやる」というフレーズが何度も聞かれ、やはりそうかと頷いた。

会の終わり間際には、川村先生が、福島研の児玉眞美先生にも引き合わせてくれた。先端研には、福島研やROCKETプロジェクトの中邑研など、特別支援を必要とする人々をスコープに納めた活動が複数ある。息子を参加させたいといった具体的希望があるわけではないが、彼が掴みうる選択肢を見逃したくないという思いは強いので、こうしたネットワークに繋がることができるのはとてもありがたい。

前回は帰りに江ノ電の終電を逃したが、今日は学習して、終電に間に合った。

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新川

新川にある日本癌治療学会の事務所へ。学術アドバイザーを務めているがん医療エキスパート育成運営会議に参加するため。
鶴岡のSさんも一緒に学術アドバイザーをやっているので、この会議は2人で話す良い機会になっているが、本日は不在。

癌治療学会の事務所は、東京駅八重洲口から八重洲通りをまっすぐに1km弱歩いたところにある。乗り換えて八丁堀駅まで行くより、歩いてしまった方が時間のあてがつくし、気持ちが良い。
八重洲地下街をどんつきのタリーズコーヒーまで歩いて地上にでて、宝町ランプ、八丁堀交差点を抜けて亀島橋を渡る。橋が跨ぐ亀島側の真東に東京スカイツリーが佇立している。橋を渡り終えると新川。地名の由来である新川は、もうない。同様に、亀島という島もない。新川は、亀島川、日本橋川、隅田川に囲まれた島だが、島の名前は江戸の頃から霊岸島だという。

今は存在しない島の名をいただく川を渡り、今はない川(運河)の名を冠する島に入る、ということだ。

それにしても都心は構造物が大きい。八重洲通りと中央通りが交差する日本橋三丁目の交差点で信号待ちをしながら、この交差点に、何軒民家が建つだろうと想像してしまった。うちの近所なら、ちょっとした町内が納まりそう。

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大掃除その1

キャビネット上の本たち
自宅の机周りを片付け。机付近には本棚を置いていない。キャビネットの上の限られたスペースが、いつも居場所が気になる本たちのスペースになる。キャビネットは3つ並んでおり、写真の手前側に往生際悪く本の行列はつづくのだが、整理の結果、いくらかの本を階下の閉架にお戻りいただくことができた。
写真に写っている本の中には、毎年のように読み返しているものもあれば、何年もここにいるのに読破に至らないものもある。けれど、ここにはいる本たち。

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E-Cell3 on yucca

鶴岡の数値計算クラスタ yucca の E-Cell3 を更新するため、ビルド作業。
これまではネットワーク管理者のKさんにお願いしてきたが、最近、いろいろ案件があって多忙のようすなので、ビルド作業までこちらで引き受けることにした。
RHEL4ベースの古いOSなので、細々とした不具合が出るが、切るところはざっくり切って、意外とすんなり、必要なものは動くようになった。
ハマらなくて安堵。

卒業研究

Tさんの卒業プロジェクトが、終盤に来てとても快調に進んでいる。
あと数ヶ月しかないのが残念になるが、背水の陣だからこそ、これだけ進捗しているのかもしれない。
誇りを持てるような、有意義な卒業論文を仕上げてほしい。
やる気次第では、春休みに論文執筆まで進めるかも。
とりあえず、一歩ずつ。

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