この映画では、アラン・チューリングを典型的な自閉症スペクトラム(ASD)を持った人物として描いている。例えば、同僚から「俺たち昼飯に行くけど」と声をかけられても、そこに「君も一緒に昼飯に行かないか」という意味が込められていることを推測することができない、といったエピソードが高密度に詰め込まれており、そこからチューリングという人物の輪郭が立ち上がってくる。
ベネディクト・カンバーバッチは、BBCドラマの「シャーロック」でも、強度のASDを持つ人物としてシャーロック・ホームズを演じているが、「イミテーション・ゲーム」のチューリングには、シャーロックの影はほとんど見られない。むしろ、まったく対照的な人物として演じている。脚本の人物造形が異なるといえばそういうことなのかもしれないが、カンバーバッチに畏怖を感じずにはいられない。
「シャーロック」におけるシャーロック・ホームズは、天才かつsociopath(彼はpsychopathではないと強弁する)である自分を肯定し、人生を楽しんでいる。一方、「イミテーション・ゲーム」におけるアラン・チューリングは、自分の才能には揺るぎない自信を持ちつつ(ケンブリッジ大学教授という相応の社会的地位も得ている)社会適応に困難のある自分あるいは、自分が社会に適応することができない理由を理解できないことに苦しんでいる。
英軍が秘密裡に組織したチームに加えられたチューリングが、同僚や上官たちと葛藤しつつ、ナチスドイツの難攻不落の暗号「エニグマ」の解読に挑む過程がこの映画の本筋だ。その挑戦の結末は多くの人が知るところだし、その後、チューリングが歩んだ人生も、ぼくのようにコンピュータとかが好きな人なら知っているだろう。だからといって、この映画が色褪せることはなかった。ひとつひとつのシークエンスに濃密な空気が詰まっており、この映画のつくり手たちが思い描きつくりあげたアラン・チューリングとその周辺の人々の人物像に心底揺さぶられ、心を打たれた。
作中、いくつかのフレーズが繰り返される。印象的だったひとつは、以前Aplleが使った「Think Different」に通じる「think differently」。たとえば「A machine is different from a person. Hence, they think differently. The interesting question is, just because something, uh… thinks differently from you, does that mean it’s not thinking?」…機械は人間のようには考えないが、だからといって機械が考えていないとはいえるのか、という問いかけ。チューリングは自問自答しながら、機械と人間の考え方が違うように、「あなた」と「わたし」の考え方も違うのであり、異なった考え方をする他人がどうやって理解しあえるのか、という疑問そして絶望へと沈んでいく。
もうひとつ、おそらく、この映画を観た人の多くの印象に残るであろう「Sometimes it is the people who no one imagines anything of who do the things that no one can imagine.」(ときに、誰も想像しなかった人物が、誰も想像できなかった事を成しとげる)という言葉がある。このセリフは、物語中、3回(たぶん)、それぞれ5年以上の時間をあけて、異なる人物によって、バトンリレーのように発せられる。どれも、とても大切な場面だ。一見、論理的かつ理知的な雰囲気で口ずさまれるのだが、そんなことはまったくない。ぶっちゃけ「根拠のない推測」に近いセリフだ。だからこそ逆に、この言葉を発する人物の思いがあふれだす。この言葉に込められているのは「君を信じている。君は大切な人間だ」という強い思いに他ならない。
それに気づいたら、涙が止まらなくなった。
すごく濃い観察ですね。映画監督も、このようなレベルの鑑賞者がいることを知ったら嬉しいでしょう。
私は、6月5日(金)東大駒場オープンハウスに参ります。少しだけお話させて頂ければ幸いです。場所・時刻を教えて下さい。
2015. 6. 1 八尾 徹 yao@riken.jp; 090-3009-9460