Selective Bottleneck

3. 複製、変異、選択の解明

生命進化を駆動する基盤となる、自己複製、突然変異、自然選択は、それぞれ、どの程度解明されているのだろうか。

自己複製

ふだん経験する世界で目にすることのできる自己複製現象のほとんどは、生命の増殖だろう。ミョウバンや食塩といった結晶の成長や、最近ではコンピュータウイルスの蔓延など、生命の他にも自己複製を見いだすことはできるが、自己複製し増えていく能力は、生命に特異な特徴と捉えられてきたし、生命科学のもっとも重要なターゲットのひとつである。
最新の細胞生物学、分子生物学の教科書で、DNA複製の仕組みについて、1章以上を割かないものはほぼ皆無だろう。ワトソンとクリックが、二重らせん構造から想起されるDNA複製機構を示唆して以来、複雑な高分子複合体によるおそろしく入り組んだDNA複製の仕組み、さらには、複製の際に起こったエラーを検出し、修復するDNA修復、DNA組換えに関して膨大な研究がなされ、10億〜100億分の1のエラー率という精度でDNAを複製するメカニズムの全体像が明らかにされている。

突然変異

突然変異は、DNA複製のエラー率がゼロではないことの直接の結果である。
遺伝情報をコードするDNAは、アデニン、シトシン、グアニン、チミンの4種類のヌクレオチドが一列に結合して連鎖した長い鎖状分子である。ふだん細胞内では、表裏の対応関係にある2本のDNA鎖がより合わさって二重らせん構造のDNA二重鎖をつくっている。4種類の塩基が含まれる割合やその順序などによって、DNA複製装置がエラーを起こす確率、エラーを発見して修復する効率に違いがあることが、数多くの研究から明らかにされている。
また、進化の歴史上、遠い過去に分岐した生物種であるほど、それぞれに異なる突然変異を蓄積すると考えられるため、複数の生物種のDNA配列を解析し、比較することによって生物種間の系統関係を類推することが可能となる。このアイディアが、精密な進化系統樹を作成する上での基盤となっている。
中でも、自然選択の影響を受けにくい、進化速度の緩慢な遺伝子(生命維持の基本的な機能を担っている重要遺伝子であることがほとんどである)は、偶発的かつ無害な突然変異だけがゆっくりと蓄積しているため、進化系統を推定するのに非常に有用で、時計遺伝子と呼ばれることもある。

自然選択

このように、自己複製、突然変異については、最近の60年間に分子レベルの解明が飛躍的に進み、そのメカニズムがミクロスケールで明らかにされている。今日のDNA配列解析技術の革新により、解読されるDNA配列情報の量が文字どおり桁違いに増加しているため、今後ますます、現生種の比較分析が進むものと期待される。
では、生命進化を駆動するもうひとつの主要なメカニズムである自然選択についても、自己複製や突然変異のように詳細な解析が爆発的に進んでいるのだろうか。
残念ながらそうではない。
その大きな理由は、分子生物学を中心とする、現代の生命科学の解析技術が、自然選択という対象にはさほど有効に機能しないからである。
自己複製と突然変異は、生物個体の機能ひいては細胞の機能であり、環境からの影響を受けるとはいえ、それぞれの現象を構成するために必要な要素は、個々の細胞内にすべて揃っている。つまり、自己複製と突然変異は、細胞内部にコードされた、細胞固有の機能といえる。したがって、細胞や、細胞内の分子を取りだしてその機能を調べることにより、現象の理解を深めていくことができる。

これに対して、自然選択は、その大部分が生物個体と環境の相互作用の結果である。それぞれの生物個体の生育環境も含めて解析しなければならず、これだけでも解析の難易度は激増する。
これに加えて、自然選択の解析をより困難に陥れるもうひとつの理由がある。そもそも、自然選択によって「選択された」とは何を指すのだろうか。ある生物個体が「選択された」ということは、別の生物個体が「選択されなかった=淘汰された」ことを意味する。淘汰された個体がいなければ、生き残った個体は単に生き延びただけであり、「選択された」とはいえない。自然選択は、ある環境下で異なる遺伝情報を持つ複数の生物個体が増殖する過程で生じ、ある遺伝情報によってコードされる〔生命のデザイン〕のあるものは生き残って増殖し、あるものは子孫を残すことなく絶滅する。そこで起こった自然選択を解明するためには、生き残った〔生命デザイン〕を知るとともに、滅び去った〔生命デザイン〕を知る必要がある。
同じ〔生命デザイン〕であっても、同じ環境下で競合する別の〔デザイン〕が劣ったものばかりであれば生き抜けるだろうし、たとえ少数でもより優れた〔デザイン〕が存在すれば、やがて絶滅の運命をたどるかもしれない。どういった環境に、どういった〔生命デザイン〕たちが存在したのかを抜きに、生命進化の過程で無数に起こってきた個々の自然選択を解明し、理解することはできない。
しかし、自然選択によって淘汰され、すでに地球上から姿を消した、少なくとも99.9998%を占める絶滅種について、私たちが知りうる情報はごくわずかしかない。
これが、自然選択の解明を困難たらしめている最大の理由である。